満願寺村縁起

満願寺村縁起について

飛鳥時代、聖徳太子所縁の寺として存在していた可能性がある。常光寺に有る河内誌談の中に満願寺と云えり国分寺か存在していたとあり度び重なる戦火又は河川(恩智川)の氾塵によわ、焼失又は流失したと推察する。寺の存在地は川原(寺内)であるが遺物が発見できず定ではない。

消滅後、寺の名に因んで村名とされ、其の後、安土桃山時代(慶長)に水難を避けるために現在の地に本村を移築され、村名も、さんずい偏を取った村名になる。

此の時期に住吉神社の御神体を住吉大社より授かり祀る。萬願寺本村は東垣内・東口・薮ノ下・江尻の字地に移る。

江戸時代に入り元和年間より、大久保加賀守忠時の領地に属し徳川氏代官五味金右衛門の支配となるが、大久保加賀守忠諸に至り、明治元年5月没収せられて同6月大阪府司農局の支配に移り、明治2年正月20日河内縣の管轄に換り、同年8月2日更に堺縣の管轄に転ずる。

同13年4月14日八尾郡役所部内となり、同14年2月7日大阪府の管轄となり、同17年7月1日第10戸長役場の管理区域に入り、同18年府下全域の検地が始まる。

同22年4月1日町村制の施行により大阪府高安郡大字万願寺となり、同29年4月1日大阪府中河内郡高安村大字万願寺となって、昭和30年4月3日八尾市との町村合併により、万願寺(南之辻)、御領(中之辻)、式部(北之辻)、新家(新家之辻)の4地区を解消して、6町会による東山本町会が誕生して現在に至る。

 

 

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