東山本町会と万願寺夏祭り

東山本町会と万願寺夏祭り 【平成9年度 東山本町会資料より】

その昔、聖徳太子所縁の寺として満願寺と云う寺が川原 (寺内)現在の東山 本町8丁目に存在していたが、度重なる戦乱又は河川 (恩智川)の氾濫によ り焼失又は流失したと推察される。消滅後その寺の名に因んで村名とされ、 安土桃山時代(慶長) に水難を避けるため本村を東垣内 東口・藪の下・江 尻に移築され、河川の氾濫を沈めるため住吉神社の御神体を住吉大社より授 かり藪の下(現在の東山本町2丁目) に祀り、御輿による祭りが氏子衆によ って催されていた。

慶長20年豊臣氏滅亡後は満願寺地域は徳川氏による支配となり、旗本大久 保加賀守の領地となり、又上之島地域は旗本曽我丹波守の領地となった。 その後、元録16年徳川幕府5代将軍綱吉により大和川の附替工事が完成さ れ玉串川及び恩智川の氾濫が治まり、田畑の拡張が図られ水難が無くなり村 名も又萬願寺村に変る。

徳川11代将軍家斉(文化1~14) の時代になり、治水の灌漑用、水利権 の争いが起り、上之島御野県主神社の氏子であった式部村が北垣内(現在の 東山本町5丁目) に御野県主神社の御神体を祀り上之島より分離し、又同じ く新家村も分離して住吉神社の氏子となった。徳川12代将軍家慶(天保1 ~14) の時代になり、村名も万願寺村と変り老中水野忠邦による天保の改 革が行われ、その内神社佛閣廃統令が施行され万願寺本村(南之辻)及び新 家(新家之辻)住吉神社・御領(中之辻)八幡大明神式部(北之辻)御野 県主神社の3神社4地区による統一祭礼となり、それぞれの神社及びフトン 太鼓は4地区の各辻管理による夏祭りが催されるようになった。

徳川15代将軍慶喜が朝廷に大政奉還したことによって江戸時代が終り、明 治29年4月1日大阪府中河内郡高安村大字万願寺となって、昭和16年中 高安連合青年団が組織され、万願寺地区も青年団が結成され青年の意気を鼓 舞するためにフトン太鼓の運行を3神社氏子衆より青年団に委ねられた。 その後、第2次世界大戦が激化したため一時中止された。終戦後、外地より 復員された青年と氏子衆により再びフトン太鼓による3神社4地区合同の夏 祭りが催され、翌年、中高安連合による万願寺青年団が結成され4地区代表 の区長許可により年間行事の一つとしてフトン太鼓の運行が始められたが、 昭和30年4月3日、万願寺村と八尾市との町村合併により、万願寺村(南 之辻)·新家(新家之辻)·御領(中之辻)式部(北之辻)の4地区を、解消して6町会による東山本町会(自治会)が誕生した。

その後、神社の祭 礼は各神社氏子によって祀られ、ふとん太鼓は氏子総代によって青年団に貸し出されるようになった。又、氏子総代は6町会の代表である区長がそれに 当たり夏祭りふとん太鼓の運行に町内見物者の安全を計るため防犯と交通整理を八尾警察署員と共に協力して行う事を6町会委員総会にて委員に依頼する。委員は全員参加協力することが慣例になっている。

昭和40年頃になり 青年団は中高安連合青年団より離れて独立し、夏祭りフトン太鼓の運行を目 的とした万願寺青年団が発足し、4地域4台のふとん太鼓運行による負傷者 のための傷害保険に加入されるようになった。又、ふとん太鼓運行に参加する者は、自己責任による自主参加ときめられ区長は、傷害保険加入と警察の 運行許可届出済を確認して許可することが通例になっている。 近年青年団も年毎に減少するため青年団OBである巴会も自主参加するよう になって現在に至っている。

平成9年度 東山本町会

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